プロフィール
稲垣 茂 (いながき しげる)
名古屋出身 1962年生まれ
これまでにナイスネイチャ・トーヨーリファール・トーヨーシアトル・トーヨーレインボー・テンザンユタカ・アルファキュ ート・イブキマイカグラ・オースミロッチ・コンサートマスター・ミスターボーイ・スーパーショット・ビッグショウリ・ハシケンエルドなどの調教を担当。2005年3月より河内厩舎に所属。

過去のコラム
第311回 今日の出来事
第310回 高松宮記念の思い出
第309回
厩舎開幕週とミルコ・デムーロ
第308回 いよいよ開幕
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競馬激辛放談

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【連載終了のお知らせ】
長らくご愛顧を頂きました当コーナーは5月19日更新分をもって、連載終了となりました。
これまで多くのご支持ありがとうございました。

第311回 今日の出来事

 河内厩舎が開業して今日で1カ月になる。

 出走自体11回と少なく、また2着2回3着2回といまだ勝てていないが、振り返れば酷い内容でもない。

 相手関係や調子を考えたなら勝てる競馬もあったが、少々の計算違いやアクシデントをもろともせずに勝ち切るほど抜けた馬がいたわけでもなく、そのあたりは仕方がないと考えているのだ。

 出走回数の少なさも前所属厩舎から、出走に制限がある多くの下級条件馬を引継ぎ、また、そうでない馬は放牧帰りであったりしたためであって、そのあたりも致し方ない。

 少しずつ馬の入れ替えが行なわれ、また、高条件馬の出走態勢も徐々に整いつつあるので、それなりの成績を上げるのもそう遠くはないと考えているが、こればかりは馬の状態と相談してのことだけに、焦っても仕方がないと、調教師をはじめ厩舎のスタッフ一同悠然と構えているのだ。 

今は下級条件馬が多い厩舎ではあるが、重賞ウイナーもいる。そう、昨年のダイヤモンドSを勝ったナムラサンクスだ。

 同馬は3月に入ってから、しかも脚部に不安を抱えての帰厩で、当初復帰を予定していた阪神大賞典・日経賞は到底間に合わず、結局、来週の大阪−ハンブルクCを目標に切り替え、馬の状態と相談しながら慎重に仕上げているのだが、調教の内容を考えたなら、来週出走させるかどうかは半々といった見立てとなっている。

 先週15−15より少しだけ早い調教を行ない、今週は今日が追い切り。DW(チップ)コースで5ハロンから15−15を。そして3ハロン馬ナリとの指示が出ていたのだが、どうも肝心の行きっぷりが悪い。

 本当に調子の良いときなら、道中はなだめになだめ、スピードアップする地点までは折り合いだけに専念し、後はペースが速くなりすぎないようにするのがナムラサンクスの追い切りなのだが、手綱を緩めるだけでなく、ゴーサインを出さないと思ったようにスピードが上がらないのである。

 この馬の場合、これまでそれほど凄い時計を出してはいないが、やればやっただけ走るというような馬なのである。3歳時など結構攻め馬で走る馬と併せても意図して控えたりしない以上は遅れたことがなかった。

 私などはその調教の内容から、ダートを使ったなら相当走るに違いないと踏んでいたのだが、芝でそれなりの成績を残してしまったがために、一度もダートを使うことなくここまで来てしまったのだが、ダート競馬においてもそこそこの結果を残せるような馬だと今でも信じている。

 ナムラサンクスのように調教の際あまりに手応えの良いような馬は、乗っていてもワクワクするようなことが多い。だが、今日の調教に関しては、この馬としては思ったよりもはるかに加速が悪く、足さばきもぎこちなく、不安になった。

 しかし、来週競馬に使うとなれば、そこそこの調教はしておかなければならないと考えるわけで、指示通りやっていいものか、それとも控えるべきか、乗り手は頭を悩ませることになる。

 ここで判断に苦しむのは、そこらあたりの馬と比較すれば、動きはそれほど悪いわけでなく、また年齢的にズブくなっているということも十分考えられ、そんなことを総合的にしかも瞬時に判断せねばならないのだから、乗り手としては結構辛いものがあるのだ。

 私クラスのキャリアを持つ助手となれば、指示通りのラップを正確に刻むことも、また折り合いをつけることもそれほど難しいことではないはずなのだが、最も難しいのはいざ早いところを行き出してから、太め感があったり、息づかいが思ったようなものでなかったり、脚さばきに違和感があったりしたときの判断で、このあたりの対応で助手の評価が分かれることにもなるのだ。

 迷いに迷った挙げ句、今回私は1週前としては少々控え気味の追い切りで済ませたのだが、調教を終えてから、厩舎に戻ると急に右前脚が出なくなった。歩様が明らかにおかしく、これは駄目だと観念し、競走馬診療所に往診を頼むと、競馬会の獣医は肩の深いところを痛めているのではないかという。おそらく捻ったのではないかというのだ。

 調教中に捻ったとなれば、大方私のミスであり、大変申し訳なく思うことになったのだが、念のために撮ったレントゲン写真を見ると、とう骨骨膜が出ており、それを庇うがために周囲まで痛めたのではないかと今度は言う。

 しかし、競走馬の疾病に関する診断というものは大変微妙で難しいものであり、診断が出た経緯から、念のために腕利きの開業獣医に改めて診察を頼むと、これは深管骨瘤だということになった。過去の診断の実績を考えても、おそらくこちらでほぼ間違いがないだろう。

 深管もとう骨骨膜もどちらも困った症状であることに違いはないのだが、違う診断が出たのでは治療に支障を来すことになるのだ(今日の午後時点では歩様は元に戻っており、このまま症状がひどくならなければ、出走に問題はないはずだ)。 

  ところで、最初に診断を下したのは競馬会に入所して3年ほどの獣医で、この程度のキャリアでは満足に診ることができないのはむしろ当たり前と言っても良い。なかには何年経ってもキャリアに見合うだけの診断が行なえないと判断せざるを得ない者もおり、それはそれで仕方がないことだと捉えているのだが、私が残念に思うのは、獣医師として確かな目を持っており、現場から頼りにされている者が現場を離れ、それまで培ってきた技量を活かせない職場に異動になったり、JRAを辞め、独立することになるケースが多々見受けられることなのである。

 例えば、私のような乗り手ではなんらかの症状がある場合、違和感は感じても、必ずしもおかしな場所までは特定できないことも多いのである。しかし何かおかしいということだけはわかる。だからこそこんなときは獣医の目が頼りになるのだが、その肝心の獣医が必ずしも頼りにならないのである。

 JRAに獣医師として採用されても、獣医としては出世にも限界があり、現場を離れることに関しては、ときに本人の意向もあるやもしれないが、JRA全体のことを考えたなら、これほどもったいないことはない。
 獣医師として長いキャリアを積み、診断のそして治療のプロとして長けた者がいるならば、それに応じた待遇を用意するのが、JRAとしても賢いのではないか。

 騎手も時として主役となりうるが、やはり競馬は馬が主役である。その馬をいかに無事に競馬場へ送り出すかが、競馬に携わる者としては最も求められることのひとつであることは間違いないはず。

 興行主であるJRAとしては、そんな環境を整えることも重要な責務のはずだが、過去を振り返れば、そのあたりを十分認識しているとは思えないのだ。
 今日の出来事を振り返ると、私にしても、またJRAのシステムにしてもまだまだ未熟なところがあるのだと痛感させられる。
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